無関心=物事・人に興味が無い
“無関心”という言葉には冷たいイメージがあるかもしれません。
現代社会において人間関係によるストレスから逃れる、自分のペースで生きるためにはある程度、意識的に無関心であることも必要だと思います。
関心があるふりした無関心
会社の人間関係、家族においてときに、お互いに関心があるというよりも実は一人の人間、個には無関心であるように感じることがあります。
職場、家族間の会話では「なぜそうしたの?」より「なぜこうしないの?」と聞かれることが多い。
相手がどう思っているか意見を聞くのではなく「なぜ同じ行動を選択しないのか?」自分の基準に相手を当てはめようとする。
正常な(と決めつけるのは良くないですが)関心であれば「どんなものに興味があるのか」、「どんなことを考えているのか」相手自身に関する質問、会話になるのでは?
相手の意思を尊重していない会話(行為)は相手の話(意見)を聞く気のない”無関心”なのではないかと思います。
あえての無関心
私自身、家族から「なぜ興味をもたないのか?」、「無関心で冷たい人間」と言われた経験があります。
その言葉を突きつけられた幼少期は辛い思いもしましたが、大人になった今は何事にも関心があるより無関心で良かったと思っています。
世の中には本質的ではない話題の情報、とりあえず(仕方ない)の人間関係など本来不要なこともある。
興味のあることを突き詰める、興味のある人と話す。
関心を持ったふり、義理で関係を築くより、シンプルに関心のあることだけで十分なのではないでしょうか。
「興味が無いものには無い」あえて意識的な”無関心”も必要なのではないかと思います。
興味を持つ内容は人それぞれ違うし、人間の寿命・体力は限られているのですから。
さいごに
“無関心”には冷たい、悪いイメージがあるかもしれませんが私はそうとは限らないと思っています。
一見、そう見える人よりも世間には「気にかけているよ」と言いつつ、実は相手自身(内面)に関心のない人もいるように見えるからです。
見せかけで関心を持つより「それには興味無い」と認める方が自分らしく日々過ごせる。
外には適度な無関心を、その分身近な人や自分の思考に関心を向けてみてはいかがでしょうか。
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