ある日を境に「どうでもいい」と思えるようになったこと

悩み
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ムダに悩む、神経質な私がある日を境に「まぁいいか」、「どうでもいいか」と思えることが増えてきました。

体調、メンタルによって細かいことに悩む性格は変わりませんが、物事に対して考える方向を変え、悩むべき内容か、そうでないかを少しづつ切り分けらるように。

人生の中での大きな悩み(悩む時間を多く取られた)のが「両親(家族)」

両親と過ごした幼少期は井の中の蛙。

同級生と過ごす中で感じ始めた違和感、進学ととも両親のもとを離れ今までの視野が狭かったことを知る。

結婚して義理の両親との差に愕然、幼少期に抱いていた違和感が確信へ。

それを受け入れるまで数年、モヤモヤ悩み続けました^^;

当の本人たちは私の気持ちなど知らず、「地元に帰ってこない」などと親戚中に負の感情をばら撒いているのでしょう。

そんな大人になっても悩まされていた私の意識が変わったきっかけは、「嫌なものは嫌」と認められるようになったこと。

「お金を出してくれた親にそんな思いを抱くなんて・・」罪悪感もありましたが、長く過ごした方と言って「好きではない」というのが真意。

1日24時間、人生の中でできることは限られているため、多くの時間を嫌いな人と過ごす、どうでもいい人のことで悩まされるのはもったいないのだと思います。

限られた時間をどう過ごすのが自分にとって良いのか、本当に大切な人は誰か。

真意を素直に受け入れ、それに基づいた考え方をするようになってからやっと、両親を思い浮かべる時間が減り、その存在自体を忘れてしまうことも。

時間が解決してくれるとは言いますが、急に頭の中から抜け落ちたような、そんな日がいつかやってくるのかもしれません。

自分の意識によるものか、歳のせいかも!?

そういえば、両親の存在に悩まされていた時期、両親に似たような中年男性達(会社にもいますね・・)に対して嫌悪感を抱いてしまったことがあります。

見知らぬ他人に何かされたわけでもないのに、「なんとなく同類の匂いがするから」、という理由で一括りにしてしまった。

その思考の原因は「何か(誰が)嫌か」という真意を受け入れていなかった、「嫌いです」とか、「それが嫌でした」と本人達に言えなかった、自分の中で消化しきれていなかったせいなんじゃないかと思うんです。

何の害も受けていない段階で「避けなければ」と今までの経験をもとにそう思考が働く。

生きていく上でリスクを考えるのはとても大事で、動物として自然なことだけど、空想で考えすぎるのはときに時間のムダなのかもしれない。

「それは自分に関係があるのか?」

結果、「意外と関係なかった」、「どうでも良い人だった」なんて、今までの人生で多かった気がします^^;

真意を素直に受け入れる少しの勇気と必要か・不必要か切り分けるほんのちょっとの(脳内)作業。

そこを変えるだけで物事の受け入れ方、見え方が違ってくる。

意識を他者(外)ではなく、もっと自分(内)に向けられると良いですね。

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