正確にいうと、「家族だから」と丸め込まれるのが苦手。
家族の一員=団体の一員、
そう認識させられることに宗教性を感じてしまう。
「家族だから」は理由になるのだろうか?
一員からはみ出さないために「個」を抑え込め!、という感覚があり
私からすると「家族なのに・・」と思ってしまうことがある。
本来、味方である(あって欲しい)はずの身近な家族でも家族と違う意見を持った時点で異質、
団体の安全を守るために異質を正しい道に誘導したい、それがダメなら数を使って排除したいように見える。
(動物でも色の違う個体を群から追い出そうとする感じ)
例えば、家族旅行の行き先を決めるとき
家族4人のうち、3人は北海道、一人は沖縄に行きたいと言ったとする。
結果、行き先は北海道、
多数決ならもちろんそうなるのと、
(家族内での)年上の意向をもとに「家族みんながそう思っている」とまとめられるから。
会社、学校など、大きな組織ならば大多数の意見が有利なのは理解できるが
家族(少数)だからこそ個人的な願望を話せたり、話し合いができるものだと思っていた。
家族なら目的を話し合い、今回は北海道で次は沖縄など、
(多数決の場合を除いて)誰か一人の意見=家族全員の総意と決めなくても良いのではないか。
長年、家族の在り方について悩まされているが
ブログを書いて自分の気持ちを整理しているうちに
最近はもっと自分の意見を言っておけば良かったのかもしれないと思ったりする。
実際、10代の頃は「No」とは言えない、
意見することすらできない圧力があったのも事実だが
(地方には女子供の発することは聞くに値しないと無意識に行動する男性もいるため)
私自身、家族とちょっと違うことで異質に見られることを恐れ
成長とともに「言っても無駄だ」と思うようになってしまった。
空気を読むことだけに意識を向け勝手に疲れ果て
唯一の癒しである自分の部屋にこもっていた。
それだけ身を削っても私の思考や発したことを理解してくれる人は血の繋がった家族には一人もおらず唯一の理解者は元は他人だった夫だけ。
(Hearではなく、Listenの対応をしてくれる)
この世でたった一人でも自分以上に自分のことを理解してくれる人がいれば十分、
他人だろうが、話し合いすらできない、とりあえず何かあったときの保険みたいな家族が健在しているよりありがたいことなんじゃないか、と今は思う。
なので、後々モヤモヤ考え続けて時間を無駄にするより
頭の中に閉じ込めていた「もう無理です」、「興味ないです」を個人の意見として言えるようになりたい。(目立ちたいがために人と違うことを言うつもりではない)
大事なのは今後の人生であり、(順当にいけば先にいなくなる)過去に関わってきた人間にどう思われようと気にしない勇気、無関心さをもちたいと思う。(残念ながら印象を決めるのは相手だから)

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