自分と違うタイプ、考えの人と接したとき「なぜ他の可能性を考えないのだろう?」、「何を根拠に正しいと思い込めるのだろう?」と思うことがあります。
人間誰しも100%正しい・間違っている、なんてことはないけど「疑わないのもどうなのだろう?」と。
何度かブログに挙げている実父は私とは(おそらく)真逆の考え方をしていて、彼の過去の行動を振り返ると人格を否定したい気持ちが込み上げてくることがあります。
「同じ苦しみを味わえ」
「彼のような大人がいなければ・・」という怒り。
その後、「そんなこと思う私はなんて親不孝なのだろう」と落ち込む、の繰り返し。
そんな葛藤も時が経つにつれ、人間関係や情報を減らすにつれ少しずつ薄れてきました。
父のような人間を否定して自分は間違っていないと思う方が(たぶん)簡単。
でも、他人のことを判断した(考えさせられた)時点で自分で自分自身を適切に判断できていないというか、自分を肯定するために他人を否定するのはある意味マウントなのではないか?
・相手も自分も完璧ではない
・「(心の声)理解はできないけれど・・」⇨理解する必要はない
・「そういう人なのだ」、「でも・・私は相手とは違う」
ただそれだけで良いんじゃないか。
社会人一年目、キツい物言いの先輩との接し方に悩んでいた私に上司から「プライベートが充実していない可哀想な人、と思えばいい」とアドバイスをされたことがあります。
当時は先輩と同じ出勤日が苦痛で機嫌を損ねないよう振る舞うのが精一杯。
でも、今冷静に考えてみると彼女のプライベートがどうであろうが、彼女の人格がどうであろうが「それって私の人生に関係あったのだろうか」。
上司のアドバイス通り相手を心の中で見下してもその場の苦痛を緩和するだけで彼女の行い自体に変化はない。
「残念な人、不幸な人=自分の方がマシ、幸せ」とはならないですよね。
「仕事上の先輩、父親を人として尊敬できない」のが(私個人の)事実で、「相手の状況は関係のないことなのだ」と相手の雰囲気にのまれないのも大事なのではないかと思うようになりました。
本当に大切なのは「自分にとって良いかどうか」なのだから。
お互い否定し合う、相手と同じ土俵に立ってはいけない。
数年前から「自己肯定感」という単語がよく使われるようになった(気がする)けど、その意味を正しく理解している人はどのくらいいるのだろう。
残念な人に対して「あの人は自己肯定感が低い」と判断したり、他人と比較して「自分の方がマシだから大丈夫」と捉えるのは本来必要な自己肯定とは少し違う気がします。
他人より自分を納得させられる発言、行動ができるかが重要なのではないでしょうか。
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