「意地悪」は余裕のなさと自分に優しくできていないことの裏返しかもしれない

思考
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ある著名人が日本人には意地悪な人が多い(足を引っ張り合う、出る杭は打たれるため)と言っている記事を見かけた。

SNS上に著名人が本質を突いた意見を挙げると「そうだ、そうだ!」と同意したり、自分と逆の立場の他人をただ非難する人たちが現れるが、そのような流れを見て少し疑問に思うことがある。

ただ同意するだけの人たちは「意地悪」ではない自信があるのだろうか?

私も日本で暮らしていて正直、そのような気持ちを抱いたことがある。
(特に両親を含む地方に住む目上の人たちに対して)

でも、周りにいる100人全員に親切な対応ができる?

家族、他人の幸せを素直に喜べる?

体調(気分)、相手によって、私はできないと思う。

実際、騒音問題による睡眠障害に悩まされていた時期は相手の状況がどうであれ、
「身の丈に合っていない選択をしておいて他人を巻き込むな!」、
「悩まされている私と同じ、それ以上の不幸を味わえ」、と内心思っていた。

かといって、「意地悪」な行動を起こしたわけではないが
「相手の方が大変かも・・」と気遣う気持ちなど芽生えなかった。

「意地悪」一言にまとめるのは簡単だけど、ダメな部分を指摘するより、

・誰かにとっては良い人でも誰かにとっては意地悪(と思われているかも)
・心のどこかで誰かの不幸を喜んでいる(動物的一面)

「意地悪」な側面は少なからず誰にでも潜んでいる可能性があり
無意識に相手を選んで精神攻撃しているかもしれない(神でも仏でもない限りそうなのでは?)

・他人に意識を向ける余裕がない
・自分に優しくする方法を知らなければ他人にも同様にできない
・自分や他人の不完全さを許すこともできない(人的資本をうまく活用できていない感じ)

その状況を理解し「じゃあどうするか?」に思考を変えた方が回り道のようで近道なのではないかと思う。

そう思ったきっかけが「みやぞん」さんのYouTube。

「自分にもっと優しく」とか、「嫌な人から離れてもいい」など、まずは自分を優先すべき、という内容の動画を見て今までの非合理的かつ、他人を思いやれない価値観(風邪くらいで休むな、水飲むな、とか)を覆すには他人(自分)に厳しく→自分に優しく、180度考え方を変える教育が必要なのでは?、と感じた。

学校、会社の教育では「相手の良い面を探そう!」と習った覚えがあるが、自分にとって良い人はより良い面が見え、モラハラ・パワハラ行為をする相手は感情に左右され良い面など見えてくるはずもない。

「意地悪」な人を増やさない、自分もそうならないために

1、自分の内面に意識を向けさせる

2、余裕ができる

3、他人に意識を向けられる

この流れの方が精神的負担が少なく、自分が満たされていれば「意地悪」な気持ちも減るのではないだろうか。

他人に対してモヤっとしたり、自分より下の人間を見つけて安心したいと感じたときは本当は誰かを攻撃したいのではなく自分に癒しが必要なサインなのかもしれない。

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