母の日・父の日は必要と感じたら行動に移せば良い

思考
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先日、駅前の花屋に珍しく行列ができていました。

「あれ、何かあったけ?」と思ったら・・5/10、母の日でした。

すっかり忘れていた母の日、そして何日かすぐには思い出せない父の日。

もう何年も縁がないというか、私の脳内カレンダーから消し去っていました。

この世に生まれたということはこんな私にも母と父が存在し、現在は義理の両親も含め4人全員健在。

実の両親へは感謝を示し、義理の両親(特に義母)へは贈り物を贈るという義務を果たすべきなのかもしれない。

こんなことを考えてしまう時点で「喜んでもらいたい!」人にプレゼントを渡す際の純粋な気持ちはない。

「私には関係ない日」だと思い続けたいのです。

幼少期〜学生時代、両親から根拠なき固定観念を押し付けられ精神的に辛い思いをした経験があります。

当時は両親と違う考えを持つ、違う行動を選択すると否定され「なんか違う・・」と違和感を感じても自分の家族が当たり前・普通だと思い込んでいました。

時代が進み「毒親」、「親ガチャ」など親との関係性に悩む人たちの原因を表す言葉が使われていますね。

私もその言葉を両親に当てはめ「自分は悪くない、相手が間違っていたのだ」と思ったこともあります。

でも、「毒親」、「親ガチャ」という言葉を使い相手を悪役に仕立て上げると一時、スカッとした気持ちになるのかもしれませんが、現在はその言葉を積極的に使用したいとは思いません。

なぜなら、簡易的に相手に悪役のレッテルを貼り付けると、今度はその相手からも同じように悪役のレッテルを貼られてしまうから。

「親ガチャ」の次は「子ガチャ」(毒親の反対語もあるのかな?)のように。

私にとっては固定観念ガチガチの親、両親にとっては思い通りにならない変わった娘。

家族だけど好きなものが違っても良い。同じ意見でなくても良い。

同じ人間として話ができればそれだけで良かったんです。

両親と私の間には認識の違いがあり意見が交わることはない。おそらく、本人たちは私が抱いていた苦痛は知らず「よかれと思って・・」と言うのでしょう。

こんなことを口に出すと「親不孝」と言われてしまいそうですが、正直な気持ちを言えるなら「人として好きになれない」。

血の繋がりがあろうが、戸籍上家族だろうが。

20年近く積み上げてきた両親との記憶から解放されるまで、正直な気持ちを受け入れるまで何年もかかり「これで良いのだ」と素直になれてまだ数年、やっと自分に目を向けられるようになりました。

変われた大きなきっかけは夫、その両親との出会い。

何かを選択肢しなければいけないとき、義理の両親(特に義父)は自分たちの例を話すけど「(自分たちと同じように)ああしろ、こうしろ」と言ってこない。

夫からするとそれは普通なのだそうだけど「こんな親(大人)もいるのか」と驚き、選択肢を与えられる(考えさせられる)ことに慣れていない私は少し戸惑いました(笑)

何十年も付き合いのある両親と出会ってまだ数年の義理の両親。

人として尊敬でき「こういう歳の重ね方をしたい」と思えるのは義父。

時間や手間をかけた方が相手にとって良いのかというと、実際はそうとは限らないんですね。

大人になってから手本となる人に出会えたことはラッキーなのかもしれません。

さいごに、もし同じような境遇、苦しい感情を抱く人がいたなら、もし過去の私に声をかけてあげられるなら「自分に素直で良い」、「自分にとって本当に大切な人に感謝しながら生きれば良い」と伝えたいです。

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