「普通・当たり前」はときに行動を制限させる呪文になる

思考
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世の中の当たり前≠自分の普通

「普通は◯◯でしょ」、「◯◯するのは当たり前」

何事もインプットがメインだった幼少期。

周りの大人達から聞いた内容をそのまま行動に移すのが普通・当たり前と思っていました。

学生になると家族以外、同級生(外)からの情報もますます増える。

いざ、自分なりに「アウトプットするぞ!」と発言、行動を取るタイミングでストッパーになるのが普通・当たり前という言葉。

「こうした方が面白いんじゃないか」を基準にしたり、家族・同級生と違う発言や行動をした途端、普通・当たり前ではなくなり宇宙人のような扱いを受ける。

普通・当たり前の壁はある程度の年齢や人生のイベントが起こる毎にやってきて「なんか嫌だな・・」と思いながらも心の中で意識してしまうことがあります。

①心の声を無視して普通・当たり前に沿って生きていく②心の声に従い普通・当たり前の壁をぶち破って進む、どちらが良いのでしょう。

①普通・当たり前に沿う方のメリットは、前例があるため失敗が少なく同じ行動を取る仲間も多いこと(需要がある)。

デメリットは前例、同じ境遇の人達の中で比較し、比較されること(マウンティング)。

一方、②心の声に従い普通・当たり前の壁をぶち破って進むのメリットは、外からの圧によるストレスさえ無視できれば自分のペースで物事を進められること。

人と違う道を進もうとすれば異質な目で見られるかもしれないが、突き進めば新しい普通・当たり前を確立できる可能性もある。

①と②、どちらが正しいか、どちらが適しているかは人それぞれで選んだ本人にしか、人生の最後まで正解は分からない。

どちらを選ぶかよりも自分で選んだか、雰囲気で選ばされたかによってその後の後悔、満足度が変わってくるのではないかと個人的に思います。

自分の意思ではなく「選ばされた」と心の中で誰かを恨み、それを他人にせいにしてしまったら・・

ネガティブワードが口から溢れ続けてしまう気がするのです。

基準は人によって違う

「◯歳なら(までに)◯◯するのが普通」、「男性(女性)は◯◯するのが当たり前」

あくまでそれは一般的に、今までの過去の事例であって現状とは異なる(人によって違う)というのが事実だと思います。

「人の物を盗んではいけない」、「暴力は良くない」などの方が道徳的に(法律上)当たり前で正しい理解の仕方なんじゃないでしょうか。

雨の日はバスに乗るのが普通(自分の中では)、晴天の日は日傘を差すのが当たり前(自分のルールでは)

普通・当たり前と他人にぽろっと言ってしまいそうなときは心の中で「あくまで自分の中では」と言い聞かせるようにしています。

例えば季節の変わり目、コートを着ている人もいれば、半袖・半ズボンの人も見かけますよね。同じ気温でも感じ方は人によって違う。

自分の中の普通を人に押し付けない。他人の当たり前は自分の人生では当たり前とは限らない。

普通・当たり前の仕切りからはみ出たものを見つけ間違い探しをするより「見た目・思考・感情全てが違って当たり前」という文化に変わっていけば良いなと思います。

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