ブログで何回も呟いてしまっている「なぜ集団にこだわる必要があるのか?」、
「集団(仲間)と言ってもその中で公開処刑したい人を常に探しているではないか?」といった疑問に対する答えが集団を維持するための生存戦略として備わっていると知ってもモヤモヤが止まらないことがある。
モヤモヤが湧いてきた後、冷静に事実を思い出しては「また無駄なことを考えてしまった・・」と反省と悔いを繰り返す。
そんなとき、夫だけはこんな私(こんな考え)でも否定せず話を聞いてくれる。
血の繋がった家族の中に誰一人そのような人は存在しなかったので
個人を理解してもらうのに集団(家族)とか血縁は無関係なのだと大人になってからより実感させられた。
両親と私との間には家族に対する見解に乖離があり、
両親は、家族なら同じ方向を見ていて同じ考えであるはず、だから出身地が好きに決まっていると捉えているように感じる。
私の場合は、人間はみな別の人間だから思考が違って当たり前、脳という同じ臓器を持っていても好きなものが同じとは限らない、といったように前提から違っているのだと思う。
これは直接両親に確認したわけではなく、勝手な憶測になってしまうのですが、
同じ思考をしている(に違いない)と無意識に思っているから
相手に質問する、相手の意見を聞かないという行動に至るのでは?、と考えると辻褄が合う気がしてしまう。
もし、相手が子供だろうが、女性だろうが、別の人間と理解できていれば相手に質問を投げかけ、意思を確認するという行動に移すのではないだろうか?
(会社のパワハラも同じような背景から起こっているのでは?)
私の目に映る彼らの姿は人間の創り出したスマホを使いながら、他者による時代の恩恵を受けているにも関わらず、新たなものを創り出せる脳という臓器の機能を否定しているように見えてしまう。(たとえ彼ら自身が創り出せないとしても)
彼らを軽蔑しているわけではなく、単純に不可解に感じるだけで、
もしこの話をしたら、「集団で生きているにも関わらず、集団に貢献しない個人が悪い!」と私の方が非難されそうですが(^^;;
血の繋がりがある家族でも前提が違いすぎると会話すらままならない、だから理解し合えないのも当然なのかもしれない。
思考が違うのは当り前で違うことは悪いことでもなくて、だからこそ対話を通して理解していくものなのではないだろうか。
過去の多くは楽しいより苦しい、肯定できる出来事ばかりではなかったけど、違いを理解して話を聞こうとしてくれる人も存在する。
そのような存在が身近にいることが私にとって幸運なのだと思う。

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